一日目(4)

死に近かった四日間

 それから、もう見るものは見尽くしたというほどに水族館内を見て回った。もうそろそろ足が限界を訴えだしそう、というところで、やっと帰る方へと向かう。出口の前のお土産コーナーで、隣人が足を止めた。
「これ買っていく」
「えっ? それをですか?」
 彼が持ちあげたものが意外で、つい聞き返す。隣人が両手に抱えているのは、かなり大きめのイルカのクッションぬいぐるみだ。そんなものを買ってどうするんですか、なんて、連れてきてもらった分際で言えたものではないが。どうするんだ。
「君もほしい?」
 隣人がそう言って笑うので、僕はやんわり断ろうとすると挙動がぎこちなくなった。
「い、いえ……」
 隣人はぬいぐるみを小脇に抱えて会計に向かう。それなりの大きさだし、そこそこの値段がするのではないだろうか。あの財布の中には一体いくら入っているのだろう。彼が会計をしている間の時間は、適当に商品を眺めて暇をつぶした。ぬいぐるみが並べられた棚の中にちいさなクラゲのぬいぐるみが置いてあって、つい手に取って手のひらに乗せてみる。彼はクラゲを見ていると落ち着くと言っていた。クラゲになりたいと思った事があるか、とも。こんな風に動かないぬいぐるみではなくて、本物のクラゲがいいんだろうけれど。
「買ってやろうか?」
 驚いて振り向くと、会計を済ませた彼がにやにやとした顔で僕の手のひらの上のぬいぐるみを眺めていた。頬がカッと熱くなる。
「いりません!」

 空の色が青から薄黄色に変わっていくころ、僕達はやっと駐車場まで戻ってきた。彼は水族館の名前とイラストがはいった大きな袋を抱えている。シルバーのセダンの前に着くと、彼は鍵を開けて後部座席にその袋を積んだ。この車に乗れば、待っているのは帰り道といつも通りの生活だ。今の生活に不満はない。不満はないはずだった。助手席のドアを開ける直前、吹き抜けた風につられて空を見上げれば、ゆっくりと流れる雲のむこうにチカチカと点滅を繰り返すヘリコプターが見えた。
「おい、乗らないの?」
 隣人はもう運転席に座っていて、シートベルトまでしている。僕は慌てて助手席に乗り込んだ。シートベルトにかけた手が止まる。思い切りが悪い僕の様子を見ていた隣人が、不安を煽る言葉を発した。

「帰りたい?」

 帰りたいか、とは、どういう事なのか、考える。これから、彼に送ってもらい、家に。ひとりの、家に。これから、両親がまだ帰ってきていない独りの家に帰って、風呂を洗って、適当に一人分のご飯をつくって、食べて、風呂に入って、今日遅れた分の勉強をして、歯磨きをして、布団に入り眠る。両親が帰るのは僕が眠りについたあと、深夜だ。今帰れば今日のサボりはバレないし、もし学校を休んだ事がバレてしまったとしてもうるさく言ってくるような親ではない。心配はされるかもしれないが、大丈夫だよと笑えば問題はない。授業だって一日分の遅れくらい、予習と復習を繰り返している身からすれば取り戻すのは難しくない。それなのに。
 それなのに、気付いたら、首をふっていた。わかった、とだけ言うと彼は他の事には何も触れずに、静かに車を発進させた。

 これからどうするのだろう。そんな気持ちだけで車に揺られていた。窓の外は知らない景色ばかりで、帰り道に向かっていないことは明らかだ。不思議と不安はささやかなもので、運転する隣人の横顔をちらと見れば彼は小さく口角を上げていた。
 車は人通りの少ない道路にはいって、それからコインパーキングに止まった。彼は手元のスイッチを操作して、窓を拳一つ分ほど開けてからエンジンを切る。ここにくるまでに空はもう真っ暗になっていて、街の明かりがなければ隣人の顔もろくに見えたものじゃないだろう。パーキングに止まる車は他になく、辺りは静まり返っている。ビルに囲まれたパーキングからは空が遠く、星も見えなかった。
「車で寝るのでいいよね」
「……はい」
 その問いに僕が了承すると、彼はさっさと椅子を倒して、後部座席に積んであったイルカのぬいぐるみを枕代わりに横になった。そのぬいぐるみはこのために買ったのだろうか。だとすれば彼ははじめから車で眠るつもりでいたのか、考えすぎだろうか。
「あの」
「なあに」
「これって誘拐でしょうか」
「まさか!」
 どことなくそう問い掛ければ、隣人は声を上げて否定をする。よくよく考えなくとも、好きでついてきたのだから、これは家出か。車内は蒸し暑く、それでも少しだけ開いた窓から吹き込む風が車内の温度を心地よくさせた。隣人はドアの方を向いて、もう寝息をたてている。僕も椅子を倒して横になった。倒した椅子の寝心地は決してよくはないが、普段の家のベットよりはなんだかよく眠れるような気がする。
 暗闇をみつめながら、今日起きた事を思い返す。はじまりは、やはり学校をサボったことだった。彼がはじめて仕事をサボったタイミングと、僕がはじめて学校をサボったタイミング。それがなければこうして車で一晩を過ごすなんてことはなかったはずだ。それと、水族館。小さい頃の記憶は遠いもので、今日がはじめてと言ってもいいようなものだった。記憶にのこるのは優雅に泳ぐ魚達に、楽しげに飛び跳ねるイルカ、そして、ゆらゆらと水中を漂うクラゲたち。所々で隣人は不器用に笑った。笑うのがあまり得意ではないのだろうと考える。それは僕も同じだった。それでも今日は、楽しかった、んだと思う。こんなふうに眠る前一日を思い返すことなんて、いつもなら無い事だから。考えているうちに段々と睡魔が僕を抱きかかえるように近付いてきた。誘われるまま目をつむれば、思考がふわりと解けていく。ふわふわと宙に浮く感覚が、また僕を襲った。ゆったりと、水中を漂う、あのクラゲのように。

 その日僕は、クラゲになった夢を見た。

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